今、目を閉じると、両の手に鮮やかな茶色と鋭い栗の頭の痛みが、はっきりと感じられる。この美しい栗を母に見せようと、八百屋の店先から二、三個黙って持って帰った。三才頃の思い出。黙って私の手を握り込んだ母の目から涙が両の手のひらにこぼれた。もちろん盗みという意識はない。なぜ母が泣くのだろう。何も言わず黙って泣いている母を不思議に思った。母に手を取られて八百屋へ行き、おじさんに頭を下げる母を見た時、おさな心に母の涙のわけを理解した。「お金がなくては物は手に入らぬ。」と口で教えられたわけでもないのに、ただ、母の涙だけが強烈に心に残った。

 若くして逝った母であるが、その後の私の生き方に、あの時の母の涙のぬくもりが、何よりの生きる指針になっていると思っている。

 苦しかった戦中戦後、二児を抱えての生活に孫も生まれ、平穏な生活を送るうちにも、幾度か涙することもあった。けれど、自分の愚かさ、苦しみ、不甲斐なさの涙は、誰にも見せず、ただ一人流してきた。子や孫たちには、人に迷惑をかけるような行動・言動は、昔の母のように心から真剣に叱り、共に涙した。

 今の若い人達は、本当に泣かなくなった。美しい物への感動、真剣に取り組む者への共感、自分より苦しむ者への思いやりの涙。自分との心との対話の中で涙することはないのだろうか。感動の涙、悔しさの涙、反省の涙等々、涙を流した後の心の底から蘇る力。

 私は思う。流した涙の数だけ、人は強くなれると。

 何事にも逃げないで、前を向いて進んで欲しい。若い日は、再び帰らぬものだから。喜びの涙、悔しさの涙、感動の涙、そして秘やかな反省の涙。

どうか、いろいろのことに涙を流せる、感性豊かな大人になってくれることを心より祈っています。